一
昔の上野の様子
上野学区は、名古屋市千種区の中央より少し北側にある、高台の地域で、昔、この一帯は「狩野荘上野邑」と呼ばれていました。「邑」とは、昔の「村」という意味です。
「上野」という地名は、周囲より高い台地の上に広がる土地であったことから名付けられました。
村の北側には矢田川が流れています。昔は、矢田川が大雨などであふれ、低い土地が水につかることがたびたびありました。そのため、人々は次第に、より安全な高台へ住むようになったと考えられています。
現在の上野学区には、住宅やマンションが立ち並び、多くの人が暮らしていますが、昔は学区の多くが、赤土の広がる野原でした。
高台では水を引くことが難しく、水田を作るのには適していません。そのため、人々は畑を開き、野菜や作物を育てて生活していました。
畑で作物を育てるためにも水は欠かせません。そこで、雨水などをためるための池を掘り、必要な水を確保しました。昔の人々は、土地を耕し、水を確保しながら、長い年月をかけて上野の地域を暮らしやすい土地にしていったのです。
二
上野城と永弘院
上野城は、永弘院を創建した下方氏の居城です。城は、現在の上野小学校の運動場から、その東側にかけての一帯にあったといわれています。
現在は城の建物は残っていませんが、上野城があったことを伝える記念碑が、永弘院の境内に移されています。
永弘院は、下方貞清によって天文7年(1538)に創建された寺院です。そのため、永弘院の歴史と上野城の歴史は、下方氏を通して深く結び付いています。

三
上野小学校と永弘院
江戸時代には、お寺で、子どもたちに読み書きや計算を教える「寺子屋」が開かれていました。当時、村の中で多くの人が集まることのできる大きな建物は、お寺などに限られていたからです。そのため、お寺が子どもたちの学びの場になることも少なくありませんでした。寺子屋では、和尚が先生となり、子どもたちに、「読み(ひらがなや漢字などの文字を読むこと)」・「書き(文字や習字を書くこと)」・「そろばん(数を計算すること)」などを教えていました。そのほかにも、日々の暮らしに必要な知識や礼儀などを学んでいました。寺院の建物を学校として使っていたため、お寺の行事や法要がある日には、授業が急に休みになることもあったそうです。
明治13年(1880)、永弘院の建物の一部を使って、寺子屋形式の「上野学校」が始まりました。その後、学校専用の建物が必要となり、現在の場所に上野小学校が建てられました。永弘院で始まった上野学校が、現在の上野小学校へと受け継がれていったのです。
四
馬頭観音
永弘院の境内に、馬頭観音が祀られています。昔は、自動車やトラックがありませんでした。そのため、荷物を運んだり、人を乗せたり、田畑を耕したりするために、牛や馬などの動物が大切な働きをしていました。牛や馬は、人々の暮らしを支える大切な仲間でしたが、生き物ですので、病気や事故によって、道中で命を落とすこともありました。人々は、長い間働いてくれた牛や馬への感謝と供養のために、馬頭観音を祀りました。
永弘院にある馬頭観音は、もともと谷口の交差点付近に祀られていたものが、道路や地域の整備に伴い、寺へ移されたものです。

五
弁天橋と弁天さま
弁天さまは、正式には弁才天、または弁財天と呼ばれ、もとはインドの水に関わる神さまでしたが、仏教に取り入れられ、日本では水を守る神仏として信仰されるようになりました。また、音楽や芸能、学問、言葉などの上達を助ける存在としても、広く信仰されています。
かつて、現在の赤坂町にある弁天公園には池があり、その場所に弁天さまが祀られていました。公園整備によって池がなくなったため、そこにあった弁天橋と弁天さまが永弘院へ移されました。

